私たちはよく、「本質をつかむことが大事だ」と言います。
けれど"本質"という言葉そのものが、実はかなり曖昧で、
人によって意味も質感も違うのではないでしょうか。
ある人にとっては「目的」と呼ばれ、
別の人にとっては「価値」と呼ばれ、
また別の人にとっては「哲学」や「核」、「中身」、「芯」、
「コアバリュー」といった言葉に置き換えられます。
同じものを指しているはずなのに、名前が揺らぐ。
揺らぐのに、多くの人が似た方向を指さしている。
ここに、少しおもしろい現象が隠れています。
名前が違うだけで、
同じものを見ていることがある
クリエイティブの世界でも、ビジネスの世界でも、
SNSの世界でも、
「本質的であること」が重要と言われます。
たとえば、
- プロデューサーは「物語の筋」
- マーケターは「顧客の課題」
- デザイナーは「体験の核」
- エンジニアは「仕組みの根」
- クリエイターは「世界観の中心点」
と呼びます。
単語は異なりますが、それぞれが見ているのは結局、
"なぜこれを作るのか、なぜこれが人に刺さるのか"
という一点に収束しています。
つまり、呼び名が変わっても、
観察している対象はほとんど同じなのです。
名前の違いは、
視点の違い
名前が分かれるのは、視点が分かれているから。
人は自分の経験領域の中で、
理解しやすい名前を付けます。
だから、本質には無数の別名が生まれます。
- ある人は「直感」と呼ぶ
- ある人は「構造」と呼ぶ
- ある人は「哲学」と呼ぶ
- ある人は「当て勘」と呼ぶ
- ある人は「世界観」と呼ぶ
どれも外れていない。
ただ、立っている場所が違うだけです。
本質に名前が多いのではなく、
本質を見ている人の数だけ、呼び方がある。
本質をつかむとは、
"その名前の翻訳ができる"ということ
本質を見抜く人は、名前に引っ張られません。
「これはマーケでいう〇〇だな」
「これはデザインでいう△△だな」と翻訳ができます。
逆に、名前に引っ張られると、
自分の世界の呼び名でしか理解できず、
他者の視点とつながれなくなります。
SNSやコミュニティが誤解で荒れるのも、
この"名前の翻訳不足"が原因のことが多いです。
本質が持つ
"たくさんの名前"を楽しむ視点
私は最近、この"名前の多さ"が
むしろ面白いと感じています。
同じ現象を見ながら、別の言葉を選ぶ人がいる。
その違いを聞くと、
相手がどんな視点で世界を見ているかがわかります。
そして、名前の違いを受け入れられると、
コミュニティやプロジェクトが驚くほど円滑になる。
多様性とは、
まさにこの部分に根がある気がします。